現代人は、選択肢が増えたはずなのに、かえって自分が何者かわからなくなっている。料理研究家・土井善晴が説くのは、お金でも仕事でもなく「食」こそが真の安心の拠り所だという視点だ。一汁一菜という「型」の中に、自由と幸福を取り戻すための思想を紐解く。
現代の日本人は自分が何者かがわかりません。
「何ができるのか?」「何をするべきか?」「何がしたいのか?」という3つの問いに、かつては、一つの答えでよかったのです。それが、今は、選択肢はいくらでもあるように見えます。生き方は自分で決められるように思います。私にはやりたいことがあると、個人が尊重され、主張できるようになりました。でも、現実はどうでしょう、思うようになんて生きられない。予定どおり時計の針が進むように、最優先で仕事にささげ、自由なんてさてどこにあるのでしょう。
自分の生き方に余裕があるときは、生きざまを大事にできます。その余裕とはお金が基盤です。その生きざまの継続で飯が食っていけるなら、さらに努力する意味があります。しかし、それができるのは才能あるアーティストか、アスリート、手仕事を守る伝統職人だけかもしれません。その他の人は、人並みに生きるために、夢を捨て、我慢を強いられ、ストレスを抱えながらも、社会で活躍できるなら、世間に評価され、西洋のように仕事が個人のアイデンティティーになるのです。
しかし、家族はどうですか。自分自身はいつも穏やかでいられますか。頭では頑張れると思っても、心はすでに負担を感じているのかもしれません。そのストレスを忘れさせてくれるのは、おしゃれすること、うまいものを食うことでしょうか。しかし、それも根本的な生きづらさの解消には至りません。
本来人生は、もっと豊かで、自由で、穏やかな世界だと思います。私はそう信じています。要するに私たちのアイデンティティーは、真の安心を求めているのです。お金という現実に対抗できる現実は「食」なのです。
「何が食べられるか?」「何を食べるべきか?」「何を食べたいか?」という3つの問いの答えは、かつては、一つでありました。和食とは豊かな自然を背景に生まれた食文化です。自然と結ぶことで、私たちは安心するのです。人間は自然の一部であることを思い出してください。人間は料理して、人間になりました。料理することで、初めて人間らしく生きられる人間の条件の大前提。食事とは「料理して食べること」です。
人間は自然の一部ですから、人間がする必然の料理とは自然行為です。
料理する人は、自然を観て素材を求め、家族を観て調理します。自然と人間の間に「料理する人」はいるのです。料理することで、自然も人間も健全でいられます。料理することは自然に触れること、私たちは料理することで、オートマチックに他者を思い、穏やかでいられるのです。料理するとは、すでに愛しているということ。料理を食べることは、すでに愛されているということなのです。自然とはそういうものなのです。
料理を難しく思わないこと、一汁一菜でよいのです。一汁一菜とは汁飯香、ご飯と味噌汁と漬物という和食の献立の原点です。その要になるのが味噌汁です。味噌汁を具だくさんにすれば、おかずの一品を兼ねますから、ご飯と味噌汁で一汁一菜は成立します。これなら忙しい日でも、疲れていても、問題なく続けられるのです。家は休息の場ではありません。自分を取り戻し、幸福を感じる居場所です。
一汁一菜は、「型」です。柔道、空手、茶道でも、日本の文化には全て型があるように、暮らしにも型があるのです。「型」とはいつも同じ繰り返し、工夫をしない、考えない、ただ手を動かして、味噌汁を作ればよいのです。「考えるな、感じろ(Don’t think. Feel)」です。型の中に自由が生まれ、無限の変化を知るのです。味噌汁には、何を入れてもよいのです。その土地の季節の今に尋ねることです。少し慣れれば、10分もしないうちに温かい味噌汁が出来上がります。
お膳を整えます。茶碗と汁椀とおかず(漬物、梅干し)をきちんとお膳に三角形(ご飯は左……)に整えて、箸を手前に横向きに置きます。これで自分の心も整えられるのです。「いただきます」。味噌汁は、だれが作ってもおいしくできる不思議なお料理です。
ゼロに戻す。食べ終われば、さっと洗い物を済ませ、片付けて、台所を掃除する。どんな秩序活動も必ずゴミがたまります(エントロピー増大の法則)。それをゼロに戻すことで持続可能になるのです。でも一汁一菜なら、さっと済ませることができるのです。食事に重きを置きすぎて、時間を奪われてきたのです。
日常の楽しみとしての食事。私たちは古代から、自然と共存共鳴して生きてきました。共存とは健康に生きる一汁一菜の食事、共鳴とは一汁一菜にプラスする楽しみです。自分が食べたい、家族に食べさせたいものを一つ作る。それは自然、自然の中から自然に目に飛び込んでくる食材です。その食材は、野菜でも、魚でも、肉でも、主役になるのです。
料理の構造。おかずは、一つの食材を一つの調理法で火を入れます。人間の都合の時計の時間ではなくて、それぞれの食材の時間に料理する人が合わせます。「和食とは何もしないことを最善とする」という第一の観念があるのです。食材に火を通して食べられるようにすることが自然の料理(一次加工)です。味付けは人工的な二次加工になるのです。素材を洗い、あぶる(焼く)、ゆがく(ゆでる、煮る)、いる(炒める、揚げる)、ふかす(蒸す)、なます(生、塩)にあてはめる。調理法を決めて、どうやればうまく火が入るかを考えて、調理することは、楽しいことです。食べるときに塩をぱらり、醤油をたらり、味噌でも、マヨでも、お好みに味をして、食べる人が好きに食べればよいのです。
料理は生きる身体哲学です。簡単な作業を繰り返し、行うことで感性は磨かれます。これまで見えなかったものが見えてくるということです。それは未来を創造する力にもなるのです。私たちは自然から学び、多くのことを教わります。料理を習慣化してください。磨かれた身体の感性は、あらゆることに役立ちます。仕事の土台にもなって機能します。
パートナーがはるかに料理経験があるのなら、あなたは初心者です。同じようにできるはずがありません。自分の手が情けないほど動かない、先が読めないことに気がつくでしょう。台所仕事、やることはいくらでもあるのです。料理は早く始めたほうがよいでしょう。
どうぞ料理をしてください。料理が自分を磨いてくれます。人生を豊かにしてくれます。料理とは、生きていく安心です。安心を土台に、幸福はあるのです。自然とはそういうことなのです。
Yoshiharu Doi
土井善晴/1957年、大阪府生まれ。料理研究家。大学卒業後、スイス、フランス、大阪での修業や土井勝料理学校講師を経て、1992年に独立。「おいしいもの研究所」代表。十文字学園女子大学副学長、東大先端科学研究センター客員上級研究員、甲子園大学、京都女子大学、多摩美術大学などで 客員教授を務める。和食文化を未来へつなぐ「和食の初期化」や、持続可能な家庭料理のスタイルを提唱。その功績が評価され、2022年に文化庁長官表彰を受賞。著書に『一汁一菜でよいという提案』(新潮文庫)、『料理と利他』(共著、ミシマ社 )、『一汁一菜でよいと至るまで』(新潮新書)など多数。1987年よりNHK『きょうの料理』に出演中。
※雑誌『Esquire Japan』2026年10月号より転載
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